糸魚川の火事から江戸時代の火消しの智恵を改めて知る

12月22日10時30分頃、1軒の家からの失火により大火となった糸魚川の火事。

この日はフェーン現象による強風と湿度41%という乾燥した気候により、出火場所からの飛び火によって火事が広まりました。

また、糸魚川駅前は木造建築の建物が密集していて、江戸時代から続く酒蔵があるなど古い街並みは江戸の町に通じるものがありました。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われていたように、江戸時代に起こった火事は他の地域に比べて飛びぬけて多かったようで、関ヶ原の戦いの翌年1601年から大政奉還の1867年までの267年間に、大火49回、大火以外も含めると1798回もの火事が起こったとの記録があります。

特に11月~3月にかけての冬の時期には、江戸特有の「からっ風(フェーン現象)」と乾燥した気候で火事の発生を増やしたようです。

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江戸時代の火事の原因


実は江戸時代の火事の原因として、失火(火の不始末)と同じくらい「放火」が多かったとの記録があります。

家を持たない貧困層が、家事のどさくさに紛れて身を隠したり、盗みを働いたりするために安易に家事を起こしていたことも江戸の火事が多かった原因です。

江戸幕府のおひざ元で、所得など生活の格差が大きかったことが人々の不満にもつながり、江戸の暮らしと火事は密接な関係があったようです。

ただし、放火は大罪。それにくらべて失火は、江戸の町では「誰にでもありえることと」という認識であまりおとがめはなかったようです。

そんな江戸の町で、まずは幕府の建物を守るために集められた「火消し」。その後、町内ごとに火消(人足)が集められ、徐々に身体能力の高い「鳶職」が火消しとして働くようになりました。

時代劇で見かける「火消し」はこの「鳶職」による火消しのようです。

江戸時代の消火方法


消防車などなかった時代、火事が起こった時の消火活動は主に隣接する家を取り壊し類焼しないようにさせる「破壊消火」という方法でした。

い組、め組などの(いろは組と呼ばれる)火消しの団体が、火事が起こると風向きなどを考慮し、火事を食い止める家の屋根に上り、纏(まとい)をかかげ消火活動をしたようです。

纏は火消しの旗印の一つで、垂れ下がった細長いひろひらを使って屋根の上で火の粉を払い火事を食い止めていたようです。

また、火事の火元となる家に隣接する家々を取り壊す際には(今では防犯用部として使われている)「さるまた」が使われ、それが今の消防署の地図記号になったとされています。

火消しをしていた「鳶職」は火事が起こり、家が壊されると新しい仕事が入ってきたことから、惜しげもなく家を壊していたようです。

でも、江戸の街の人々も火事は日常茶飯事だったようで、風が強い日や乾燥している日などは、いつ火事が起きても大丈夫なように避難体制を準備し「宵越しの金は持たない」などの気風も江戸の火事と関係していたようです。

さいごに

最近江戸時代にはまっている私^^

江戸時代から始まっていることが、今では当たり前になっていたり、浮世絵のように当時の人の生活を垣間見ると妙に親近感をもったりと…江戸時代すごし!と感じている毎日です。

もっと勉強しなくちゃ!

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